高校日本史解説

高校日本史に関する内容を解説します。

祝『英文 詳説日本史』刊行!

 2024年3月下旬に、山川出版社から『英文 詳説日本史』が刊行されるとのことです。

 

 日本史の用語を英訳することの難しさたるや、想像するに余りあるものがありますが、リンク先の山川出版社のサイトでは、いくつかの事例を紹介されています。

 

院政→government by a retired sovereign

鎖国→closed country

 

 鎖国は開国との対で訳されていそうで、まぁそうかなという印象です。院政については、自身は天皇を経験しないまま院政を主宰した後高倉院は"a retired sovereign"と言えるのか?と思ってしまいますが、じゃあ代案を出せと言われると何だろう…と考えてしまいます。

 

 ここで参考になるのが、黄霄龍・堀川康史編『アジア遊学289 海外の日本中世史研究』(勉誠出版、2023年)所収の菊地大樹「歴史翻訳学ことはじめ―英語圏から自国史を意識する」です。

bensei.jp

 

 菊地氏は非日本語圏の研究における用語の使い方に注目することで、日本語を用いる日本史研究者が抱いている暗黙の前提を可視化することができるとします。そして、日本語圏と非日本語圏の「二つの異なる回路の間で宙吊り状態になりながらも、その亀裂をつなぎ止め、ひとつの日本史叙述に結び合わせていこうという学問的試み」(150頁)として、「歴史翻訳学」を提唱します。

 

 私の専門である宗教史上の用語を翻訳しようとすれば、もっと複雑な文化体系が背後から露骨に顔を出す。たとえば勧進はfund raisingが訳語として定着している。しかし、勧進は本来「作善」を勧めること一般を指す。「資金調達」はその結果であり、勧進の二次的な属性に過ぎない。ただし、日本でもかつての研究水準では後者が強調されていた。その時期に翻訳語として定着していると考えれば、やむを得ない側面もある。こうした用語を顧みれば、歴史翻訳学とは一義的な翻訳語をいったん充てて終わるものではない。語彙にまつわる歴史的な文脈の研究が進展するに従い、アップデートが必要な動態的な側面があると同時に、それを意識したハイブリッドな水準を目指すことになる。

(菊地大樹「歴史翻訳学ことはじめ―英語圏から自国史を意識する」149頁)

 

 菊地氏が例とした「勧進」は、大学入試的には2012年東京大学第2問*1を想起させます。成功と勧進を対置して、勧進の特徴(広範な人々に結縁を促す)に気づかせる問題でした。

 では、「資金調達」(fund raising)ではなく「作善」の要素をどう英訳すればよいでしょうか。菊地氏が紹介されている史料編纂所HPの「⽇本史⽤語翻訳グロッサリー・データベース」から検索してみましょう。

 

日本史用語翻訳グロッサリー・データベース

一番上の検索結果によれば、

・Collecting donations

・evangelism

 が挙げられています。前者については、単なる「資金調達」ではなく何らかの目的をもつ「寄付」を募るものである点が注目されます。後者については、宗教的要素として「伝道」が指摘されている点が注目されます。単なる「資金調達」ではないことを強調する意味では、前者の方がより穏当な気がしますが、文脈によっては「伝道」の要素を強く出した方が適切な場合もありそうです。

 

試みに他の用語を検索してみると、

・浮世絵→floating world art(リンク先参照)

・頼母子→credit association(リンク先参照)

のように、逐語訳なようでいて意外と本質を捉えていそうな訳(憂き世↔浮世)や、機能面に注目した意訳のほかに、

・権門→A gate of power." Term made famous by Kuroda Toshio describing institutions with their own organs of governance, or mandokoro, capable of transmitting and disseminating orders. Kenmon could include religious institutions, the house organs of governance for major nobles, members of the imperial family, or for that matter, the Kamakura bakufu. Kenmon were autonomous, but not independent, entities. power blocs."(リンク先参照)

逐語訳を示した後に、元となった黒田俊雄説を紹介するものもあります。

 

 このように、日本史の用語を英訳する作業は英語の体系を通して日本史を再解釈することを要求されるため、普段考えてこなかった論点に気づかせてくれる効果が期待できます。

 朝河貫一が「入来院文書」を英訳した『The Documents of Iriki』(史料編纂所HPにて、漢文と英訳の対照可)*2を使いながら、朝河訳の代案を考える授業を誰かやってほしいですね。

楽市楽座について

はじめに

 2024年共通テスト日本史B本試験で、楽市楽座に関する史料問題が出題されました(解答番号3)。楽市楽座通俗的なイメージ(織田信長の革新性を象徴する政策、中世的な座を排除して近世的な都市に転換する画期)と異なる史料の内容に、戸惑った受験生もいるかもしれません。

 そこで、近年の楽市楽座研究をまとめた長澤伸樹『楽市楽座はあったのか』(平凡社、2019年)によりながら、楽市楽座について整理してみましょう。

 

www.heibonsha.co.jp

 

※問題は福井新聞ONLINEから閲覧できます。

 

楽市楽座研究史

 まず、楽市楽座研究史を確認しましょう。戦前以来の厖大な蓄積がある分野ですが、長澤氏の整理を無理やり3点にまとめると、以下のようになるようです。

 

織田信長の天下統一構想の中に位置づけられる。

②権力側の主導で制定した法である。

③中世的なあり方(座)から脱却し、近世城下町につながっていく画期である。

 

 ところが近年の研究では、これらのいずれについても見直しが進んだ結果、次のような方向性が出てきました。

 

①'信長以外の戦国大名の事例に注目し、天下統一構想と分離して検討。

→六角氏、今川氏、北条氏、柴田勝家豊臣秀吉などの事例に注目。

②'受容者側(地域社会)の主体性や、大名が地域社会の動きを追認する側面に注目。

→法制定のプロセスにおいて、商人・大名間の交渉を想定。

③'市場全体のうちごく一部が「楽市楽座」を称したことから、「楽市楽座」とその他大多数の市場との違いに注目してその意義を検討。

→同時代のその他の市場との比較から、「楽市楽座」の市の特徴を検討。

 

 信長の天下統一構想や、中世・近世の転換点の中に楽市楽座を位置づけるのではなく、同時代の個別具体的な状況の中に楽市楽座を位置づけ、なぜその他大多数の市場と異なり、その市場が「楽市楽座」を冠することになったのかに関心が移行したといえます*1

 

 もう一点重要なこととして、「楽市」と「楽座」は常にセットで史料に現れるわけではないことが指摘されています。したがって、両者はそれぞれ独立に検討する必要があります。

 

 以上の観点を踏まえて、いくつか事例を見てみましょう。

 

最古の「楽市」事例

【史料1】天文18年(1549)12月11日六角氏奉行人連署奉書案「今堀日吉神社文書」(303頁)

※仲村研編『今堀日吉神社文書集成』(雄山閣出版、1981年)でも閲覧可(NDLデジコレ)

(A)紙商売事、石寺新市儀者、為楽市条不可及是非、(B)濃州幷当国中儀、座人外於令商売者、見相荷物押置、可致注進、一段可被仰付候由也、仍執達如件、

 天文十八年十二月十一日

             忠行在判

             高雄在判

  枝村

   惣中

 

 【事例1】は年次が明らかな史料のうち、「楽市」の語が確認される初見事例です。差出は六角氏奉行人2名、宛所は枝村惣中とありますが、実はこの文書は特定の町に宛てた法令ではなく、六角氏が枝村商人たちに下した裁判の判決文(裁許状)なのです。「今堀日吉神社文書」は保内商人側の文書群なので、後日の裁判で枝村商人が証文として提出してきたのを写したか、六角氏から写しをもらったのでしょう*2

 

 裁判に至る経緯について見ていきましょう。冒頭に「紙商売」とあるように、近江国枝村では15世紀半ば以降、美濃紙を扱う商人の活動が盛んで、室町幕府や近江守護から紙の専売(本座)を安堵されていました。

 ところが新たに台頭した保内商人は、六角氏家臣と主従関係を結ぶなどして守護権力と癒着し、枝村商人と対立しました。今回の裁判は、古参の枝村商人が保内商人の紙商売を自身の専売権への侵害だと六角氏に訴えたものでした。

 六角氏からすると、枝村商人・保内商人ともに自身の分国の経済活動を担う存在であり、一方を切り捨てる選択肢は望ましくありません。それゆえ、下された判決は双方の棲み分けを図る妥協的な内容となりました。

 

 【史料1】の前半(A)は、石寺新市における紙商売は「楽市たるの条、是非に及ぶべからず」と述べています。共通テストの注釈にあるように、「是非に及ぶべからず」は「あれこれと議論してはならない」、よりシンプルにいえば「文句を言うな、口出しするな」ということになります(長澤氏は「石寺新市は楽市であるため致し方がない」と訳されています)。

 この判決文は枝村商人に宛てられたものですので、彼らに対して譲歩を迫っていることになります。その内容は(B)との対比から、石寺新市における保内商人の紙商売であるとわかります。つまり、六角氏は枝村商人に対して、石寺新市においては、保内商人の紙商売を認めるよう命じたのでした。

 

 一方後半(B)では、枝村商人に従来通りの権利を認めています。「濃州幷当国〔近江〕中」は要するに石寺新市以外のエリアを指し、そこでは「座人」(枝村商人)以外の商売を認めず、もし発見したら荷物を差し押さえて、六角氏に報告するよう命じたのです。

 

 それでは、(A)の「石寺新市は楽市であるため致し方がない」が、保内商人の紙商売を認めることになるのはなぜでしょうか。ここで注意するべきは、書きぶりからし「楽市」はこの判決によって創造されたのではなく、すでに存在するものであり、かつ「楽市」の内容について六角氏・枝村商人(+保内商人)らに共通理解がありそうだ、ということです。

 加えて、この判決文が枝村商人の訴えに対する六角氏の回答という性格を持つためか、「楽市」の具体的内容は不明です。さしあたり、そこで紙商売を認めるか否か、という営業権に関わるもののようですが、確証はありません*3

 

 六角氏は、商人らの自生的慣習である「楽市」を追認して判決を下したのであり、少なくとも新たに「楽市」を創造したのではないことを確認しておきましょう。

 

家康が設置した「楽市」

 次に、徳川家康が武田氏と遠江駿河国境で対峙していた時期に出された楽市令を見てみましょう。なお、現存する家康の楽市令はこの事例のみです。

 

【史料2】永禄13(1570)年12月日徳川家康朱印状「松平乗承家蔵古文書」(305頁)

(朱印) 小山新市之事

一、為楽市申付之条、一切不可有諸役事、

一、公方人令押買者、其仁相改可注進事、

一、於彼市国質郷質之儀、不可有之事、

 右条々、如件、

  永禄拾三季

      十二月 日

 

 小山は大井川沿いの遠江国榛原郡にあり、東隣の駿河国には武田氏の勢力が進出していました。さらに武田方は小山に城を築いて遠江侵攻の拠点を形成しており、まさに徳川・武田両勢力が鎬を削る最前線が小山であったといえます。加えて小山は、大井川とその下流駿河湾の水上交通を掌握する上でも、重要な位置を占めていました。

 こうした緊迫した状況下で出されたのが【史料2】です。1条目の文言(「楽市として申し付け」)より、【史料1】とは異なり、大名権力が新たに小山を楽市に認定したことがわかります。

 また、楽市の内容として諸役免除(「一切不可有諸役」)が明示されています。家康が他の市場に出した法令でも、諸役免除の規定をもつものはありますが、「楽市」文言を有するのは小山だけです。その理由として、長澤氏はこう述べます。

 

家康が「楽市」を掲げることは、境目を行き交う商人たちにとって、他の市とは異なることを広く認知させ、彼らを招き入れる広告塔としての役割も期待されたに違いない。そこには、武田氏へ間接的な経済損失を与えようとする、家康の戦略的思考が込められていたともいえるのではないだろうか。(88頁)

 

 つまり、この場合の「楽市」は近世的城下町への移行を目指す文言ではなく、目前の武田氏との対立を踏まえて、商人たちを徳川方に引きつけるためのキャッチコピーだったのです。

 

「楽座」は座の廃止にあらず

 ここからは、「楽座」に注目していきましょう。

 「楽座」は戦後の研究史では「楽市」の次の段階として、座を打破する政策と捉えられてきました。ところが実際には、「楽座」は座の解体を意味するわけではなく、座の解体は「破座」など別の語で表現されていたことが明らかになりました。

 「楽座」文言が確認される史料が次の柴田勝家判物です。

 

【史料3】天正4年(1576)9月11日柴田勝家判物「橘栄一郎家文書」(338頁)

諸商売楽座仁雖申出、於軽物座唐人座者、任御朱印幷去年勝家一行之旨可進退、商人衆中法用之儀者、可為如定者也、仍如件、

 天正

   九月十一日  (花押)

       橘屋三郎左衛門尉

 

 当時、信長の重臣柴田勝家は、朝倉氏滅亡後の越前国を支配していました。宛所の橘氏は、朝倉氏の下で薬や絹織物(軽物)などを扱う御用商人でしたが、朝倉氏滅亡後は信長に接近して軽物座の長の安堵をもらい、中国からの輸入品を扱う唐人座の長に任じられました。

 信長は越前国内の有力商人を取り込み、商品流通を掌握しようとしたわけですが、同時に、橘氏座商人や新興商人から「役銭」を徴収して上納するよう命じます。ところが役銭の徴収はすぐに滞るようになり、天正3年9月には勝家が役銭徴収の徹底を橘氏に命じました。【史料3】はその翌年に出されたのです。

 

 【史料3】冒頭の「諸商売楽座に申し出るといえども」の申し出た主体は、諸商人の抵抗に遭って役銭徴収を進められない橘氏と考えられます。橘氏の「楽座」要求に対して、勝家は「御朱印幷去年勝家一行」(役銭徴収の方法を定めた信長の朱印状と、その徹底を命じる勝家の文書)にしたがって、役銭徴収を行うことを命じました。戦国大名にとって役銭は重要な財源であり、そう簡単に手放せるものではなかったようです。

 ここから、橘氏の求めた「楽座」とは、勝家の命令の反対、つまり「座組織の即日解散をさすのではなく、彼ら座商人たちが、足羽三郡以下で商売を行う際に課される、役銭(上品之絹)徴収の減免を勝家側に求めた状態」(235頁)と推測されます。

 つまり「楽座」は、座の解散ではなく、「楽市」が「市を楽にする」(非法行為の禁止、諸役免除など)のと同様に、「座を楽にする」(戦国大名が特権商売の対価として命じた、役銭上納の免除)ものでした(236頁)。

 

 実際、「破座」などの形で座の解体が進むのは、秀吉が関白に任官して以降のことです。秀吉は信長が行っていた従来のあり方(特権商人を保護→役銭上納)を、関白就任を機に改め、自身の権力の存在を全国に浸透させようとしたと考えられます(289-290頁)。 

 

まとめ

・「楽市楽座」の適用範囲はかなり限定されていた。

→近世城下町の起点になる政策ではない。

・「楽市」は「市を楽にする」もので、諸役免除などの具体的内容は、地域の事情により異なる。

→商人たちの自立的活動の中に原型があり、戦国大名が地域の事情に応じてそれを追認・創出した。ただし、「楽市」か否かの決定権は大名の手に回収されていく(295-296頁)。

・「楽座」は「座を楽にする」もので、座商人に役銭を免除して本来の市の状態に戻すことを意味した。

戦国大名は役銭収入を手放さず。秀吉は中世的な座を解体(「破座」)し、商人支配体制を再構築しようとした(290頁)。

*1:個人的には、②'は近年の中世史研究における権力観の変化にも関わる論点で興味を惹かれます。この点につき、山田徹ら『鎌倉幕府室町幕府 最新研究でわかった実像』(光文社新書、2022年)、佐藤雄基『御成敗式目 鎌倉武士の法と生活』(中公新書、2023年)など参照。

*2:但し、裁判の相手方が提出した証文を写した場合は、端裏書にその旨を記すので(97号文書の端裏書など。仲村研氏のまえがきによる)、六角氏から写しをもらった可能性の方が高いかもしれません。

*3:長澤氏は、他の「楽市」事例において諸役免除が認められていないケースがあることから、石寺新市も同様であった可能性を指摘します(68-69頁)。

永仁の徳政令について

 2024年共通テスト本試験日本史B(問題番号13)で、永仁の徳政令とそれを用いた南北朝期の名主百姓等申状が出題されました。有名な史料であり、かつ史料原本の画像・翻刻も公開されていますので、まとめて見ていきましょう。

 

※問題は福井新聞ONLINEから閲覧できます。

 

 出題された史料の出典は徳政令の本文(史料1)、申状(史料2)ともに東寺百合文書です。同文書は「東寺百合文書WEB」で公開されていて、以下のリンクから参照できます。

 

・史料1:永仁5年(1297)3月6日関東事書案(京函48-2)

hyakugo.pref.kyoto.lg.jp

・史料2:康永4年(1345)9月日山城国下久世庄名主百姓等陳状(京函48-1)

hyakugo.pref.kyoto.lg.jp

 

 貼り継ぎの順番から、史料1の永仁徳政令は、史料2の百姓等申状の具書(添付資料)として利用されたことがわかります。まずは申状(史料2)を見てみましょう*1

 

 目安

山城国下久世庄名主百姓等申、為被捨御徳政法、号京都住冷泉治部卿僧都祐円余流良伊豆丸、捧古反故及奸訴之条、語言道断濫吹也、其故如永仁五年三月六日・同七月廿二日関東徳政御事書幷御教書〈備左〉者、於非御家人幷凡下輩質券売買之地者、不謂年記遠近、売主可取返之云々、➀然間当庄殊更為関東得宗御領之間、任御事書法、自給主千田殿被相触之間、本主等取返之当知行既雖送四十余年星霜、其内終以不及相論之処、②号当御奉行御使武家仁二階堂丹後守家人宇野九郎、捧古反故、去康永元年十月廿九日、放入大勢庄家、被譴責名主百姓等之間、其時御奉行大蔵卿阿闍梨御坊、依令言上事子細、仰地頭御代官、被追立宇野九郎訖、③雖然、有所存之者、則可及上訴之処、無其儀、差置数輩御奉行、得当御奉行折、号良伊豆丸、為被捨徳政法、以同篇古反故就訴申之、被封下之条、殆非撫民之儀、④然而雖帯関東御下文・御下知之状、過当知行廿箇年者、非御沙汰限之条、御式目法也、何況今年者四十九年之間不知行、捧古反故及奸訴之条、不可有御許容者哉、以此旨、可然様有御披露、如元名主百姓等為蒙安堵御成敗、謹目安言上如件、

  康永四年九月 日

 

 山城国久世上下庄は、鎌倉時代には「関東得宗御領」すなわち得宗の所領でしたが、鎌倉幕府の滅亡後は一時的に久我家領となり、その後、建武3年(1336)に足利尊氏が東寺鎮守八幡宮に下久世庄地頭職を寄進しました。ここから東寺領荘園としての同庄の歴史が始まります。

 

 さて、百姓等申状(史料2)からは以下の経緯がわかります。

永仁の徳政令(赤字部分)は「給主千田殿」*2から「本主」(売主)に伝えられ、それに基づいて彼らが所領を取り返して以来、40余年にわたり紛争は起きなかった。

②康永元年(1342)10月29日、武家方の宇野九郎が「古反故」を捧げて大勢で庄園内に乱入し、名主百姓らを苦しめたので、東寺経由で室町幕府に訴えて、宇野九郎を追い払ってもらった。

③その後、もし不服があればすぐに提訴するべきところ、そうはせず、今の(室町幕府の)奉行人と関係を作れたタイミングで良伊豆丸*3などと名乗り、前と同じ「古反故」を捧げて提訴した。(それを受けて奉行が)訴状をこちらに封じ下された*4(正式に訴訟として取り上げて、相手方の下久世庄に訴状を渡した)のは、いわれなきことである。

④たとえ関東御下文や下知状(による所領安堵)を持っていても、20年知行しないままであったら、もはや所領の返還を求める訴訟は取り上げない、と御成敗式目(8条)に規定がある。ましてや今年まで49年の間不知行であったのに、「古反故」を捧げて提訴するなど、許されるものではない。

 

 ④の今年(1345)まで49年間不知行であった、という表現から逆算すると、永仁の徳政令(1297)が出た直後に、同法令が「給主千田殿」を介して「本主」(申状を書いた名主百姓らの先祖)に伝わり、買主(非御家人)から下久世庄内の所領を取り返したようです。

 ところが康永元年(1342)に、室町幕府に仕える二階堂丹後守の家人である宇野九郎が、「古反故」(徳政令以前に「本主」と交わされた売買証文)を根拠に、下久世庄を実力で奪還しようとしました。下久世庄の百姓らは何とかこの企てをしのぎましたが、その後も良伊豆丸(宇野九郎)が、前回と同じ内容の「古反故」を根拠に所領返還を求める訴訟を室町幕府に起こしました。史料2は、それに対する百姓側の反論として書かれた申状(陳状)になります。

 

 このように永仁の徳政令(史料1)は、訴人(原告)の良伊豆丸の主張を斥け、百姓の主張を正当化する重要な証文であり、それゆえに申状の続きに貼り継がれたのです。それでは、その内容を見てみましょう。

 

A 関東御事書法

一、質券売買地事〈永仁五年三月六日〉

 右、於地頭御家人買得地者、守本条、過廿箇年者、本主不及取返、至非御家人幷凡下輩買得地者、不謂年記遠近、本主可取返之

 

B 自関東被送六波羅御事書法

一、可停止越訴事

 右、越訴之道遂〔逐〕年加増、奇〔棄〕置之輩多疲濫訴、得理之仁猶難安堵、諸人侘傺職而此由、自今以後、可停止之、但逢評議而未断事者、本奉行人可執申之、次本所領家訴訟者難准御家人、仍云以前奇〔棄〕置之越訴、云向後成敗之条々事、於一箇度者可有其沙汰矣、

一、質券売買地事

 右、以所領或入流質券、〔或脱ヵ〕売買之条、御家人等侘傺之基也、於向後者可従停止、至以前沽却之分者、本主可令領掌、但或成給御下文・下知状、〔或脱ヵ〕知行過廿箇年者、不論公私之領、今更不可有相違、若背制符、致濫妨之輩者、可被処罪科矣、

 次非御家人凡下輩質券買得地事、雖過年記売主可知行、

一、利銭出挙事

 右、甲乙之輩要用之時、不顧煩費依令負累、富有之仁専其利潤、窮困之族弥及侘傺歟、自今以後、不及成敗、縦帯下知状、不弁償之由雖有訴申事、非沙汰之限矣、次入質物於庫倉事、不能禁制、

 

C 関東御教書、御使山城大学允〈同八月十五日京着〉

越訴幷質券売買地利銭出挙事、々書一通遣之、守此旨、可被致沙汰之状、依仰執達如件、

  永仁五年七月廿二日  陸奥守〈宣時〉〈在御判〉

             相模守〈貞時〉〈在御判〉

 上野前司殿〈宗宣〉

 相模右近大夫将監殿〈宗方〉

 

 史料1は以下の3通の文書から構成されています。

A「関東御事書法」(永仁5年3月6日付):関東で作成された、徳政令の要綱

B「自関東被送六波羅御事書法」(永仁5年7月22日付):Aをより詳細に規定して、六波羅に通達した内容

C「関東御教書」(永仁5年7月22日付→8月15日に京都に到着):Bに添付された説明書

 

 今回特に重要なのは、「質券売買地事」と題された条文です。設問のリード文で「鎌倉幕府の出した法令は主に御家人を対象とした」と言及されているように、永仁の徳政令御家人を適用対象とする法令でした。これは、Bで所領を質入れしたり売却することが「御家人等が侘傺(困窮)する原因である」とされていることからも確認できます。

 

 つまり永仁の徳政令において、所領を質入れ・売却する主体(つまり「売主」)は御家人に限定されていたのです。続いて、御家人御家人領を御家人や非御家人・凡下輩に売却した場合どうなるのかが説明されます。

 

 まず、御家人が他の御家人に所領を売却した場合ですが、「原則」取り戻せることとしました。ただし、次の「例外」も設けます。一つは売買契約を承認する幕府の安堵状を得ている場合、もう一つは売却から20年を経過した場合です。

 一方、御家人が非御家人・凡下(要するに御家人以外の人々)に所領を売却した場合ですが、20年を経過していようとも御家人は取り戻せることとしました。御家人間の売買であれば所領返還の「例外」として認められた20年という年紀が、ここでは認められていません。

 

 ここから、鎌倉幕府御家人の所領が御家人以外に流出することを、より強く忌避したことがわかります。その理由としては、御家人が幕府に奉公する際の財源として、彼らの所領からの収益が利用されたことが挙げられます。御家人御家人領を手放してしまうと、御家人が幕府にきちんと奉公できなくなるリスクが発生します。

 だからこそ、幕府は永仁の徳政令で「御家人が知行する所領については、幕府による認定をもって正当な権利の所在の指標とする」*5ことを目指したのでした*6

 

 さて、そうすると冒頭の史料2の百姓らの主張には、重大な誤りがあると言わざるを得ません。彼らが御家人身分でないことは明らかです。にもかかわず永仁の徳政令発布から間もない時期にその適用を主張し、しかも実際に売却所領の取り戻しに成功してしまったのです。

 それから約半世紀後、買い取った所領を徳政令により奪われた祐円の子孫と称する宇野九郎が提訴した時、百姓らは自身の先祖が行った取り戻しを永仁の徳政令によって正当化するべく、「至非御家人幷凡下輩買得地者、不謂年記遠近、本主可取返之」(A)という法令を、「於非御家人幷凡下輩質券売買之地者、不謂年記遠近、売主可取返之」(史料2)に書き換えたのです。笠松宏至氏はこの書き換えについて、以下のように述べています。

 

「この陳状を実際に書いたのは誰なのか、それはわからない。百姓たちが自分で文章を練り、筆を執った可能性はほとんどない。そのようなことに練達の寺僧の一人だったかもしれない。それが誰であったとしても、この文章をつくりながら、当然ながらその矛盾に気がつかないわけにはいかなかった。売った人間に非御家人・凡下を入れておかなければまずい。このささやかな作為が、「買得の地」を「売買の地」に変えたのである。今さらそんな必要は全くなかったのに。この微笑ましい改竄に気づいたとき、もろもろのことが一度に思い合わされて、私はひどくおかしかった。」

(笠松宏至『徳政令講談社学術文庫、2022年、初出1983年、33頁)

 

bookclub.kodansha.co.jp

 

 日本中世法史を考える上で必備のこの名著の一節が、選択肢cの「史料1の規定を読み換え」の元ネタとなったであろうことは想像に難くありません。

 

*1:翻刻『大日本史料』6編9冊648頁以下を参照。

*2:得宗に仕える女房と考えられます。筧雅博『蒙古襲来と徳政令講談社学術文庫、2009年、初出2001年、274頁。

*3:「…と号する」という表現から、宇野九郎が自称していると考えられます。また、②の「号当御奉行御使武家仁二階堂丹後守家人宇野九郎」より、元々この人物は今回の奉行人に伝手があったようです。

*4:訴状を「封下」す手続については、岩元修一「訴状を封じ下す手続」(岩元『初期室町幕府訴訟制度の研究』吉川弘文館、2007年)参照。

*5:新田一郎太平記の時代』講談社学術文庫、2009年、初出2001年、33頁。

*6:徳政の理解については、笠松宏至『徳政令』(講談社学術文庫、2022年、初出1983年)、新田一郎「中世社会の構造転換」(水林彪ら編『新体系日本史2 法社会史』山川出版社、2001年)、神野潔「鎌倉期の法と秩序」(出口雄一ら編『概説 日本法制史』弘文堂、2018年)など参照。