2024年3月下旬に、山川出版社から『英文 詳説日本史』が刊行されるとのことです。
\\✨構想約10年、『英文詳説日本史』ついに発売!!✨//
— 山川出版社 (@yamakawapub) 2024年2月1日
『英文詳説世界史』の刊行から約5年・・・高校日本史教科書の英語版が発売します!
本日、プレスリリースしました!📰https://t.co/vmkTAQ7LBh
紹介サイトもオープン!🎉https://t.co/ZFJ8LiCjDL
発売は3月下旬です。お楽しみに☺️… pic.twitter.com/a6Sclwpuq7
日本史の用語を英訳することの難しさたるや、想像するに余りあるものがありますが、リンク先の山川出版社のサイトでは、いくつかの事例を紹介されています。
・院政→government by a retired sovereign
・鎖国→closed country
鎖国は開国との対で訳されていそうで、まぁそうかなという印象です。院政については、自身は天皇を経験しないまま院政を主宰した後高倉院は"a retired sovereign"と言えるのか?と思ってしまいますが、じゃあ代案を出せと言われると何だろう…と考えてしまいます。
ここで参考になるのが、黄霄龍・堀川康史編『アジア遊学289 海外の日本中世史研究』(勉誠出版、2023年)所収の菊地大樹「歴史翻訳学ことはじめ―英語圏から自国史を意識する」です。
菊地氏は非日本語圏の研究における用語の使い方に注目することで、日本語を用いる日本史研究者が抱いている暗黙の前提を可視化することができるとします。そして、日本語圏と非日本語圏の「二つの異なる回路の間で宙吊り状態になりながらも、その亀裂をつなぎ止め、ひとつの日本史叙述に結び合わせていこうという学問的試み」(150頁)として、「歴史翻訳学」を提唱します。
私の専門である宗教史上の用語を翻訳しようとすれば、もっと複雑な文化体系が背後から露骨に顔を出す。たとえば勧進はfund raisingが訳語として定着している。しかし、勧進は本来「作善」を勧めること一般を指す。「資金調達」はその結果であり、勧進の二次的な属性に過ぎない。ただし、日本でもかつての研究水準では後者が強調されていた。その時期に翻訳語として定着していると考えれば、やむを得ない側面もある。こうした用語を顧みれば、歴史翻訳学とは一義的な翻訳語をいったん充てて終わるものではない。語彙にまつわる歴史的な文脈の研究が進展するに従い、アップデートが必要な動態的な側面があると同時に、それを意識したハイブリッドな水準を目指すことになる。
菊地氏が例とした「勧進」は、大学入試的には2012年東京大学第2問*1を想起させます。成功と勧進を対置して、勧進の特徴(広範な人々に結縁を促す)に気づかせる問題でした。
では、「資金調達」(fund raising)ではなく「作善」の要素をどう英訳すればよいでしょうか。菊地氏が紹介されている史料編纂所HPの「⽇本史⽤語翻訳グロッサリー・データベース」から検索してみましょう。
一番上の検索結果によれば、
・Collecting donations
・evangelism
が挙げられています。前者については、単なる「資金調達」ではなく何らかの目的をもつ「寄付」を募るものである点が注目されます。後者については、宗教的要素として「伝道」が指摘されている点が注目されます。単なる「資金調達」ではないことを強調する意味では、前者の方がより穏当な気がしますが、文脈によっては「伝道」の要素を強く出した方が適切な場合もありそうです。
試みに他の用語を検索してみると、
・浮世絵→floating world art(リンク先参照)
・頼母子→credit association(リンク先参照)
のように、逐語訳なようでいて意外と本質を捉えていそうな訳(憂き世↔浮世)や、機能面に注目した意訳のほかに、
・権門→A gate of power." Term made famous by Kuroda Toshio describing institutions with their own organs of governance, or mandokoro, capable of transmitting and disseminating orders. Kenmon could include religious institutions, the house organs of governance for major nobles, members of the imperial family, or for that matter, the Kamakura bakufu. Kenmon were autonomous, but not independent, entities. power blocs."(リンク先参照)
逐語訳を示した後に、元となった黒田俊雄説を紹介するものもあります。
このように、日本史の用語を英訳する作業は英語の体系を通して日本史を再解釈することを要求されるため、普段考えてこなかった論点に気づかせてくれる効果が期待できます。
朝河貫一が「入来院文書」を英訳した『The Documents of Iriki』(史料編纂所HPにて、漢文と英訳の対照可)*2を使いながら、朝河訳の代案を考える授業を誰かやってほしいですね。
*1:問題は塚原哲也氏のサイト「つかはらの日本史工房」から参照できます。
*2:日本中世史料として名高い御成敗式目の英訳について、佐藤雄基「御成敗式目の現代語訳はどうして難しいのか:立法技術・語彙・本文に関する覚え書き」(『立教史学』5号、2022年)参照。