高校日本史解説

高校日本史に関する内容を解説します。 旧「過去問講習」(https://note.com/michinotori)

東京大学日本史2025第一問(仏教受容のあり方)

 

資料文

(1)7世紀前半の飛鳥文化期には、飛鳥寺などの氏寺建立が進み、中国・朝鮮半島からの渡来系仏師による中国的様式を備える仏像製作が行なわれた。

(2)7世紀後半の白鳳文化期には、白村江の戦いで唐との直接交渉が絶たれたため、朝鮮半島からの渡来人が中国的様式を備える絵画を伝えた。

(3)702年の遣唐使の再開で日唐国交は復活し、遣唐使派遣が恒例化した。

(4)留学僧は日本における戒律の未整備を問題視したほか、経典を体系的に招来して教学の興隆に努めた。

(5)来日した鑑真は天皇・日本僧に正式な戒を授け、経典を招来したほか、仏像製作の工人を伴った。

 

設問要求

 問われているのは7~8世紀にかけての「中国文化の受容のあり方」・「担い手」の変化とその「背景」の3点。資料文の内容を整理すると以下の通り。

 「中国文化の受容のあり方」については、物質的なものから精神的・体系的なものへ変化したこと、「担い手」が渡来系仏師から日本人留学僧・唐の高僧などの僧侶へ変化したことが指摘できる。

 「担い手」の変化の背景については、白村江の戦いや遣唐使再開などの日唐関係で説明がつくだろう。問題は、「中国文化の受容のあり方」の変化の背景である。なぜ、7世紀には仏像・壁画などの仏教芸術が求められ、8世紀には正式な戒律や体系的な経典が求められたのか。

 これは国内的要因から説明すべきだろう。7世紀に飛鳥寺をはじめとする王家・豪族単位の氏寺建立が進んだことが知られているが、これは寺院が古墳にかわって豪族の権威を象徴するものとなったためである*1

 また、8世紀に正式な戒律や体系的な経典が求められたのは、奈良時代の仏法により国家の安穏を実現しようとする鎮護国家思想が前提にある。

 以上より、国内的背景(寺院造営ブーム、鎮護国家思想)が「中国文化の受容のあり方」を規定し、対外的背景(白村江の戦い、遣唐使再開)が「担い手」を規定したことを確認した。改めて表に整理しよう。

 

解答案

7世紀には氏寺が権威の象徴となり、唐や半島系渡来人仏師による造像など、物質的側面での中国仏教の受容が進んだ。白村江の戦い後は半島経由での受容に努めたが、8世紀に日唐国交が復活すると、鎮護国家思想に基づく朝廷の体系的な経典・正式な戒律への需要に留学僧が応え、唐の高僧を招いて教学面での仏教受容を進めた。(150字)

*1:古墳と寺院の連続性につき、2015年第一問も参照

東京大学日本史2026第一問(古代の女官)

 

資料文

(1)(2)律令制下の女官は、天皇の身辺に仕え、天皇と二官八省の意思伝達や皇位を象徴する宝物類の管理など、固有の職掌を担った。

(3)律令制下の女官は天皇の信任を得て昇進し、男性官人を夫として国政に参加した。

(4)平城太政天皇の変を機に、女官が行政手続から疎外される。

(5)10世紀末には女官は有力貴族の幼い娘が任じられるようになり、祭礼参加が主たる職務となっていた。女官は将来天皇・皇太子に嫁ぐことが予定されており、そこに至るキャリアルートとして位置付けられた。

 

設問要求

 「職務」「政治権力との関係」の変化が問われている。資料文の内容をまとめると以下の通り。

 まず職務について。律令制下では天皇に仕える官人として(1)、男性官人とともに夫婦で国政に参加し、儀礼の運営にも加わっていた(2)(3)。律令制以前から、地方豪族は男女を問わず王権に奉仕していたが、そのあり方が律令制導入後も残ったのである[伊集院2025]。

 しかし平城太政天皇の変以降、天皇側近としての女官の役割は男性官人に移管され、女官の固有の職掌は縮小した。摂関期には女官の職務は祭礼などの儀礼への出仕に限定され、行政の実務から疎外されていた。

 但し、祭礼への出仕の意義を過小評価するべきではない。

平安時代以降天皇は貴族社会を構成した貴族を代表して祭祀を主導する存在となっていくと考えられている。天皇が特定の神との関係を強めていく中、諸社の公祭や奉幣、内侍所神鏡に関わる祭祀などの新たな祭祀がさかんに行われるようになる。そのような新しく行われるようになった祭祀を補助したのは女官、なかでも天皇の最も側で奉仕をしていた内侍であった。女官が担っていた役割の多くが男官にとってかわられるようになる一方で、祭祀において女官はなくてはならない存在だったのである。(中略)平安時代以降祭祀のあり方が大きく変化する中で、女官に求められていたのは天皇が執り行った祭祀を補佐し代行することであったのだろう
(竹内美佳「摂関期の女官と天皇」大津透編『摂関期の国家と社会』山川出版社、2016年、26-27頁)

 解答に反映させるのは難しいが、摂関期の女官の地位について否定的な表現を強調しすぎないようにしたい。

 次に政治権力との関係について。律令制下では、女官は天皇の信任を得て昇進し、官人の夫とともに国政に参加した(3)。一言でいえば天皇の臣下・側近である。

 ところが女官の職務が実務から排除されると、女官は成人ではなく将来の天皇の妃候補となる未婚の娘が経由するキャリアパスの一つに変質した。女官は天皇の性愛の対象であり、将来的には次代の天皇の母となることが期待された。

 

解答案

律令制下の女官は天皇の臣下として行政・儀礼において固有の職務を担い、男性官人の夫とともに国政に参加した。しかしその役割が男性官人に移管されると、女官は行政の実務から排除された。その結果、女官の職務は国家的儀礼への出仕等に限られ、その地位は有力貴族の未婚の娘が将来皇妃になるまでの一階梯へ変化した。(150字)

 

余談

 予備校の解答速報の中には、奈良時代の女官が夫である男性官人を支えたとする趣旨のものがあるが、女官と政治権力との関わりを問う問題なのであるからやや蛇足の感がある(もちろん嘘ではないが)。(3)で藤原仲麻呂の妻が歴代天皇の「信任を得て」要職に就いたことが明記されているのだから、女官が実務者として天皇を支えたことを素直に書けば良いだろう。以下の引用も参照されたい。

奈良時代には女帝が多いのに、その場合でも内裏で働いているのは女性ばかりなのはなぜか、という質問を受けたことがしばしばある。これには、女官は天皇の「思い者」だろうという思い込みがあるのだろうが、実際には(中略)彼女らは次官、つまり実務のトップとして立身を遂げたのであり、女帝もまた女官を必要としていたことがわかる彼女らは「貴人に近侍するのは女性である」という社会的分業に基づいて機能していたのである。そして私が注目したいのは、吉備由利や飯高諸高が称徳女帝の側近としてその病臥中から最期まで補佐役を務め、しかも次の光仁天皇の時代まで勤務を続けていたことである。後宮女官は女帝であれ男帝であれ、彼女らがいないと政治が動かない、内廷の生き字引的存在だったのである。[榎村2023,79-80]

 また、平安期に活躍する女房は、天皇ではなく后妃に仕える存在であった。女房の役割について、概説書では以下のように説明されている。

女房は、九世紀前期に蔵人―殿上人の制度が成立するのと並行して成立した。すなわち、蔵人―殿上人が天皇と私的関係によって結ばれていたのと同様に、女房はキサキと私的関係によって結ばれた存在であったというわけだ。それが、一〇世紀後期から一一世紀中期の摂関期に、皇后・中宮の政治的・社会的な役割が大きくなると、キサキたちに仕えていた女房も政治的に表舞台へ立つようになっていく。
(古瀬奈津子『摂関政治』岩波新書、2011年、94頁)

 天皇―蔵人の関係とパラレルなものとして、キサキ―女房が位置付けられている。本問では女房に触れるものではないが、蔵人と女房を比較する視座は持っておきたい。

 また、摂関期の母后については、旧課程で山川出版社が『詳説日本史』のオルタナティブとして出していた『新日本史』に記述がある。

当時の貴族社会では、結婚した男女は当初は妻側の家で生活し、子どもは母方の家で養育されることが多かった。天皇家では、妻が内裏に入ったが、やはり妻側の家が面倒をみたので、天皇を後見するには天皇の外戚(母方の親戚)であることが重要であった。また、一条天皇の母詮子や道長の娘で後一条天皇の母彰子も、一定の政治力をもって道長を支え、また出家後は女院(東三条院・上東門院)となった
(『もういちど読みとおす山川新日本史 上』山川出版社、2022年、64頁)

 ここでいう「一定の政治力」とは何か。[古瀬奈津子2001,12]は彰子について、「摂政や前摂政に関係する事柄について、母后は単に摂政のかわりをつとめているのではなく、摂政とは別の立場から幼少の天皇を補佐していた」とする。母后は摂関期においては父上皇と並んで子の天皇を補佐する立場にあり、天皇を上皇・母后・摂関らが協調して補佐するのが基本型であった。中世的な「家」が成立する以前の在り方を考える上で重要な論点である。

 

参考資料

伊集院葉子「古代女官の特質」(総合女性史学会『女性労働の日本史 古代から現代まで』勉誠出版、2025)

榎村寛之『謎の平安前期 桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年』中央公論新社、2023年

古瀬奈津子「摂関政治成立の歴史的意義 摂関政治と母后」『日本史研究』463、2001年

東京大学日本史2026第三問(年貢と生業)

 

資料文読み取り

(1)木曽・美濃との境界にある山間部の村であり、田畑が少ないこと、林業を生業とする人々が多かったであろうことが推測される。以下の教科書の説明を参照。

材木の産地である山を抱える村(山里)には、杣と呼ばれる伐木の職人や、材木の運送などにたずさわる労働者(日用)が、山里の百姓として多数居住した。(『詳説日本史』山川出版社、173頁)

(2)寛永18(1641)年の史料を以下に引用した(出題部分との対応箇所を太字で示した)。

(前略)一、絵図記如申候、清内路と申在所御座候、是ハ木曽美濃国々境、ひの木・さわら木山の中ニ有之在所、石高ハ無御座候ゆへ、以前より郷帳ニハ記不申候、先年より清内路巣と申御巣鷹上ケ申役ニて候へとも、近年人数多ク罷成候ゆへ、御榑木千丁宛御年貢ニ納させ申候、其外御用木被仰付候時ハ、此村の百姓木師ニて御座候ゆへ、過分ニ木数出し申所也、此清内路村ニ関所御番所有、但此在所より御榑木流し申小川道天流迄五六里御座候(後略)(「千村文書」『信濃史料』28巻、120-121頁)

※「御巣鷹上ケ申役」の巣鷹とは、雛のうちから鷹匠により育てられた鷹を指す。

 自治体史では、この史料から「近年になり人数が増えたので、榑木千挺宛を年貢に納めさせている」と説明されている。(『清内路村誌』351頁)逆に言えば、寛永18年以前の近世初頭の段階では、人口も少なく、本途物成の賦課対象となる田畑・屋敷地も乏しかったと推察される。

(3)(2)の時点から約一世紀を経ると、清内路の山は尽山(伐りつくした山)となり、材木ではなく貨幣で納める方式に変化した。貨幣獲得の手段としては、周辺の山での賃金労働、都市における商品作物・木製品の販売などがあった。清内路村の住人が獲得した貨幣は、年貢として納めるほか、食糧購入にも利用された。

 

設問A

 石高が設定されるのは田畑・屋敷地であり、それを基準に賦課されるのが本途物成である。山間部にあり、17世紀初頭の時点では人口も少なかった清内路村は、田畑・屋敷地に乏しく、石高が設定されなかったと想定される。かわりに御巣鷹役が課されたものの、林業に携わる職人が増加したことにより材木年貢へ転換した。

 設問要求は石高が設定されなかった理由の説明なので、上の太字箇所を丁寧に説明すれば十分と思うが、解答案では米年貢の代わりに何を納めたかを指摘することで、単なる免税地ではない旨を強調してみた。

 

設問B

 清内路村と「米を生産する農村」を比較した表を書いて整理しよう。

 清内路村は(3)より、村外での賃金労働や、商品作物・木製品の販売で貨幣を獲得していたことがわかる。ここで獲得された貨幣が年貢や食糧調達に充てられたのであるが、これは米を生産する農村が基本的に食糧を自給し、経済的には外部との接点を必ずしも多く持たないことと好対照をなす。清内路村の経済面での開放性・非完結性を指摘すればよい。

 

解答案


山間部で人口が少なく、石高の設定基準となる田畑・屋敷地も乏しいため米年貢の賦課が見送られ、代わりに材木貢納が命じられた。(60字)

米を生産する農村が貨幣獲得手段に乏しく経済的閉鎖性を持つ一方、清内路村は村外での賃金労働や木製品等の販売で貨幣を獲得し、年貢納入や都市での食糧購入に用いる等、開放的な性格を有した。(90字)

 

余談

 Bでは米を生産する農村の経済的な閉鎖性を前提に答案を作成したが、肥料調達に注目すると別の様相が浮かび上がる。村の周辺の入会地から植物性肥料を調達したことは周知のことであるが、新田開発の進展で入会地が減少し、百姓経営の零細化で厩肥の利用が困難になると、購入肥料である金肥への依存を深めていくようになる(肥料については過去記事参照)。本問ではその辺りのことを捨象して、年貢と生業の結びつきから説明することとした。

 労働・年貢・経済のかかわりについては、2010年第三問の院内銀山も参考になる。あわせて取り組みたい。

 

参考資料

坂本広徳「一七世紀清内路村における年貢負担の推移」『飯田市歴史研究所年報』20、2022年

東京大学日本史2026第四問(戦中・戦後と高度経済成長期の女性労働者)

 

【資料読み取り】

(1)総力戦体制下において男性労働者の徴兵が進み、「機械工業や鉄道」など軍需産業を中心に女性の就労が進んだ。「未婚の若年者」との注記は、既婚女性が家庭で出産・育児という、将来の兵士育成において重要な役割を担ったことを裏返しに示す。

(2)農村から都市への若年者の移動は核家族の形成を促したが、それによって育児を誰が担うのかが問題となった。従来は同居or近くにいる祖父母や親戚に頼ることができたが、都市に出てきた若者にそうした存在はいなかったためである。また、賃金労働者として生きていく者が増えるということは、雇用者の提示する給与体系に生き方が規定されることを意味する。

(3)高度経済成長期に整備された給与体系は、男性を稼ぎ手・女性を専業主婦とする性別役割分業を誘導するものであった。都市に出た若者は、否応なくこのシステムに順応することを余儀なくされた。

(4)労働力率は、高度経済成長期を経て子育て世代の女性で低下した。これは専業主婦を選択する女性が増えたことの現れであり、その後再就労した場合も、「少額の収入」しか得られない非正規雇用であった。

 

【設問A】

 総力戦期に女性労働者が増加し、戦後すぐに減少へ転じた理由を説明することが求められている。すぐに思いつくのは以下の内容だろう。

・増加の理由:軍需産業で働いていた男性労働者が徴兵→政府が欠員補充のため動員
・減少の理由:男性兵士の復員/男性民間人外地からの引揚げ→男性失業者の就労が優先され、女性労働者は解雇(そもそも、空襲により産業基盤が壊滅=就労先の不足)

参考までに、終戦直後に厚生省は以下のような要望を出している。

戦争終結に伴ひ、左の如く一三二四万の復員者を生じ、之に対しては極力前職復帰を図る外、現在就職せる女子等を家庭に復帰せしめて代替就職せしむると共に、新規就職に際しては復員者の優先採用を原則とし、極力就職斡旋を図らんとするも…(復員者等の失業対策に関し各省に対する要望事項(厚生省案) 昭和20年11月8日)

※史料表現は適宜改めた。

※復員者数が1000万人を超えているのは、内地の復員者等も計上したため。

 総力戦体制下では軍事上の判断が常に優先され、政府は既婚女性に出産・育児(実際には労働者もいた)、未婚女性に軍需産業への就労を命じた。これは、Bで企業の経済的ロジックが女性の生き方を規定する状況と対になっている。動員・解雇のどちらにおいても、女性の主体性や選択が認められていない点に注意したい。

 

【設問B】

 「変化」の内容としては、

・25-34歳の女性の労働力率低下→育児を担う専業主婦となる女性が増えた

・35歳以上の女性の労働力率上昇→非正規雇用で再就労する女性が増えた

の2点が中核となる。

 「変化をもたらした背景」としては、都市への若年者移動による核家族化・賃金労働者の増加・性別役割分業を誘導する給与体系などを踏まえればよい(下図参照)。

【解答案】


軍需産業従事者の男性が徴兵されると、補充のため育児をしない未婚女性が動員された。戦後、空襲で産業基盤が崩壊した国内への復員・引揚げが進むと男性の復職が優先され、女性は解雇された。(89字)

都市への人口移動で核家族・賃金労働者が増え、男性を主な稼ぎ手、女性を育児を担う専業主婦とする給与制度が浸透した結果、女性は育児期間中の就労が困難になり、復帰後も非正規雇用で働いた。(90字)

 

余談

 結局、戦中戦後・高度経済成長期ともに、女性の自由な労働参加はなかったということになる。総力戦期には軍需産業に動員され、戦後には男性復員者の復職のために解雇され、高度経済成長期には性別役割分業を誘導する給与体系によって自由な労働参加が阻害されてきた。戦時の軍事的ロジック・戦後の経済的ロジックがともに女性を「家」ないし家庭に押し込めてきたことの告発を読み取ることもできるのではないか。

 あと十数年したら1980年代の男女雇用機会均等法以降の動きも出題対象となるだろうから、そこまでに世間がどう変わっていくかを注視したい。

 また、比較史の観点からは、同じく総力戦体制の下で女性が軍需産業に従事した経験を持つ他国との共通点・相違点が何なのかが気になる。この辺りは歴史総合で触れられるならぜひ扱いたいところである。

【参考資料】

・早川紀代「女性たちはどこで、どのように働いてきているだろうか」(総合女性史学会『女性労働の日本史 古代から現代まで』勉誠出版、2025)

アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る戦時と戦後」

東京大学日本史2026第二問(御成敗式目と分国法)

はじめに

 比較的簡単なAに対して、4行(120字)要求するBに面食らった受験生が多かったものと推測する。式目と分国法について表でまとめると、こんなところだろうか。

 

 

 Aで書くべきなのは、右上の2ヶ所(律令法を参照するが継受はしない/頼朝以来の先例を根拠に掲げる)だろう。

 

設問B

 厄介なのはBである。解答の中核として、

 ①原則として式目を継受したこと(塵芥集)
 ②大名の裁量で例外規定が設けられたこと(結城氏新法度)

の2つがある。①は式目が武家法の規範として社会に定着していたことを指摘できれば良い。②について、塵芥集と結城氏新法度が判断材料となる。塵芥集は伊達稙宗個人が作成したものであることは、その内容重複や妙に具体的な事例提示など、法的に稚拙なところから明らかである。結城氏新法度についても、資料文の「そうでなくては認めるわけにはいくまい」のように、大名のモノローグが前面に出ており、先行研究でも大名から家臣への書状のような性格を持つことが指摘されている。

一口にいうとこれ〔執筆者註:結城氏新法度〕は法令ではなくて、制定者結城政勝個人から家臣個々に充てられた書状、そんな顔をしているのです。もちろん内容はプライベートのものではなく、公的で永続的な効力をもつことを期待された法律であることは疑いありません。しかしその顔は、法律というよりはむしろ、多くの恐喝とそれと裏腹の泣きごとを、お説教まじりにめんめんと書きつづった手紙である、と表現する方がずっと真に迫ります。先ほどいいました法律専門家たちの筆が入った形跡の全くない、百パーセント政勝個人の作品といえましょう。(笠松宏至「『結城氏新法度』の顔」『法と言葉の中世史』平凡社ライブラリー、1993年、初出1975年、226-227頁)

 

 では、戦国大名(本問では結城氏)は式目の例外規定を設けることで何を狙ったのか。資料文中にあるように、例外規定(養育側の主人に下人の子の所有権を認める場合)は「届け出」すなわち結城氏への事前報告を前提としている。とすると、大名権力への恭順が当事者に裨益するような法整備を行ったとみることができよう。

 同様の事例は喧嘩両成敗法でも観測される。当事者間の実力行使ではなく、大名法廷に訴え出た者に一方的な保護を与える運用は、つまるところ大名権力の求心力強化に奉仕するものであった。

 式目では頼朝の先例が大っぴらに改変されず(実態としてはフィクショナルなところはあるが)、分国法では式目が恣意的に改変されたのは、こうした戦国大名の志向を前提におくと理解しやすい。主従関係下にある者たちの紛争裁定基準であるがゆえに、大名自身の裁量・恣意が前面に出ていることを示せれば、②の前提説明としては十分であろう。拙解答案では、式目との対比を入れることで②をより強調してみた。

 冒頭に掲げた表でいくと、A・Bの棲み分けは以下の通り。

 

解答案

A
律令法を参照するが継受はせず、頼朝以来の先例を基準とした。(29字)
B
執権が自身と同格の御家人を適用対象とする御成敗式目を定めた一方、戦国大名は分国内の統治者として家臣らの紛争の裁定基準を設けた。そのため分国法は武家法の規範となった式目を原則的に継受したが、大名の裁量で例外が設けられ、その求心力向上を促した。(120字)

 

余談

 本問は律令法―御成敗式目―分国法の継受の在り様を主題とする。法の継受は、唐の律令や西欧近代法の継受においても重要な論点である。先行法の制定者・適用対象の関係は、継受する側のそれと同一であるとは限らない。ゆえに継受する側の事情に応じた改変が適宜加えられることになる。

高校生が論文を書く時に役立つもの

 

1.書籍・論文の所在を調べる

国立国会図書館サーチ:書籍・章タイトル、著者名、雑誌名などで検索可能

ndlsearch.ndl.go.jp

国立国会図書館デジタルコレクションは、昔の雑誌・書籍をフルテキスト検索できるので至便。個人送信サービスは利用登録(成人のみ可)が必要だが、ログインなしで閲覧可能な資料も大量にある。

・CiNii Rsearch:論文検索サイト。一部は本文検索可能

cir.nii.ac.jp

J-STAGE:CiNiiと同じ論文検索サイト。『史学雑誌』などを公開。「資料・記事を探す」>「資料を探す:分野から」>「人類学・史学・地理学」で絞り込むべし。

※特に『史学雑誌』の「回顧と展望」号を読むと、ある程度網羅的に論文の所在を把握できる。J-STAGEには昔の「回顧と展望」しか置いていないので、最近のものが見たければ個別に申告すべし。

www.jstage.jst.go.jp

 

2.歴史学の論文の書き方を調べる

秋山哲雄・田中大喜・野口華世編『増補改訂新版 日本中世史入門 論文を書こう』勉誠出版、2021年

 上野大輔・清水光明・三ツ松誠・吉村雅美編『日本近世史入門 ようこそ研究の世界へ!』勉誠出版、2024年

松沢裕作・高嶋修一編『日本近・現代史研究入門』岩波書店、2022年

松沢裕作『歴史学はこう考える』(ちくま新書、2024年)歴史学的発想を学ぶ上で有益。

 

3.通史的な内容を学ぶ

『岩波講座日本歴史』(岩波書店):テーマ別に近年の研究動向を整理。図書館にあるので読むべし。

『日本史の現在1~6』(山川出版社、2024年)

岩波新書「日本○○史」シリーズ

ちくま新書『○○史講義』シリーズ

講談社学術文庫『日本の歴史』シリーズ

 

4.テーマ別の内容を学ぶ

有富純也・佐藤雄基編『摂関・院政期研究を読みなおす』(思文閣出版、2023年)

『シリーズ古代史をひらく』(岩波書店)

『シリーズ 日本近世史を見通す1~6』(吉川弘文館、2023年)

 

工具書(絵画・新聞等)

 

【考古】

歴博土偶データベース(リンク)

・木簡庫(リンク)

・全国遺跡報告総覧(リンク)

 

【絵画資料】

小松茂美編『日本絵巻大成』中央公論社(NDL)

・『新修日本絵巻物全集』角川書店(NDL)

・餓鬼草紙写(NDL)

・病草紙写(NDL)

洛中洛外図屏風(歴博甲本)(リンク)

※その他の洛中洛外図屏風リンク先から閲覧可能

・職人歌合絵巻(高松宮家本、歴博所蔵)(リンク)

歴博近世職人画像データベース(リンク)

史料編纂所所蔵荘園絵図摸本データベース(リンク)

史料編纂所データベース(リンク)には錦絵データベース等あり

・錦絵:リンク先の明示新聞雑誌文庫の記事を参照

www.meiji.j.u-tokyo.ac.jp

 

【新聞】

※リサーチナビを参照。

ndlsearch.ndl.go.jp

・国書データベース>東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター明治新聞雑誌文庫(リンク)

・明示新聞雑誌文庫所蔵検索システム(リンク)

神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ 新聞記事文庫(リンク)

 

【古地図】

※リサーチナビを参照

ndlsearch.ndl.go.jp

・今昔マップ(リンク)

国土地理院古地図コレクション(リンク)

坤輿万国全図(林原美術館所蔵)(リンク)