高校日本史解説

高校日本史に関する内容を解説します。

楽市楽座について

はじめに

 2024年共通テスト日本史B本試験で、楽市楽座に関する史料問題が出題されました(解答番号3)。楽市楽座通俗的なイメージ(織田信長の革新性を象徴する政策、中世的な座を排除して近世的な都市に転換する画期)と異なる史料の内容に、戸惑った受験生もいるかもしれません。

 そこで、近年の楽市楽座研究をまとめた長澤伸樹『楽市楽座はあったのか』(平凡社、2019年)によりながら、楽市楽座について整理してみましょう。

 

www.heibonsha.co.jp

 

※問題は福井新聞ONLINEから閲覧できます。

 

楽市楽座研究史

 まず、楽市楽座研究史を確認しましょう。戦前以来の厖大な蓄積がある分野ですが、長澤氏の整理を無理やり3点にまとめると、以下のようになるようです。

 

織田信長の天下統一構想の中に位置づけられる。

②権力側の主導で制定した法である。

③中世的なあり方(座)から脱却し、近世城下町につながっていく画期である。

 

 ところが近年の研究では、これらのいずれについても見直しが進んだ結果、次のような方向性が出てきました。

 

①'信長以外の戦国大名の事例に注目し、天下統一構想と分離して検討。

→六角氏、今川氏、北条氏、柴田勝家豊臣秀吉などの事例に注目。

②'受容者側(地域社会)の主体性や、大名が地域社会の動きを追認する側面に注目。

→法制定のプロセスにおいて、商人・大名間の交渉を想定。

③'市場全体のうちごく一部が「楽市楽座」を称したことから、「楽市楽座」とその他大多数の市場との違いに注目してその意義を検討。

→同時代のその他の市場との比較から、「楽市楽座」の市の特徴を検討。

 

 信長の天下統一構想や、中世・近世の転換点の中に楽市楽座を位置づけるのではなく、同時代の個別具体的な状況の中に楽市楽座を位置づけ、なぜその他大多数の市場と異なり、その市場が「楽市楽座」を冠することになったのかに関心が移行したといえます*1

 

 もう一点重要なこととして、「楽市」と「楽座」は常にセットで史料に現れるわけではないことが指摘されています。したがって、両者はそれぞれ独立に検討する必要があります。

 

 以上の観点を踏まえて、いくつか事例を見てみましょう。

 

最古の「楽市」事例

【史料1】天文18年(1549)12月11日六角氏奉行人連署奉書案「今堀日吉神社文書」(303頁)

※仲村研編『今堀日吉神社文書集成』(雄山閣出版、1981年)でも閲覧可(NDLデジコレ)

(A)紙商売事、石寺新市儀者、為楽市条不可及是非、(B)濃州幷当国中儀、座人外於令商売者、見相荷物押置、可致注進、一段可被仰付候由也、仍執達如件、

 天文十八年十二月十一日

             忠行在判

             高雄在判

  枝村

   惣中

 

 【事例1】は年次が明らかな史料のうち、「楽市」の語が確認される初見事例です。差出は六角氏奉行人2名、宛所は枝村惣中とありますが、実はこの文書は特定の町に宛てた法令ではなく、六角氏が枝村商人たちに下した裁判の判決文(裁許状)なのです。「今堀日吉神社文書」は保内商人側の文書群なので、後日の裁判で枝村商人が証文として提出してきたのを写したか、六角氏から写しをもらったのでしょう*2

 

 裁判に至る経緯について見ていきましょう。冒頭に「紙商売」とあるように、近江国枝村では15世紀半ば以降、美濃紙を扱う商人の活動が盛んで、室町幕府や近江守護から紙の専売(本座)を安堵されていました。

 ところが新たに台頭した保内商人は、六角氏家臣と主従関係を結ぶなどして守護権力と癒着し、枝村商人と対立しました。今回の裁判は、古参の枝村商人が保内商人の紙商売を自身の専売権への侵害だと六角氏に訴えたものでした。

 六角氏からすると、枝村商人・保内商人ともに自身の分国の経済活動を担う存在であり、一方を切り捨てる選択肢は望ましくありません。それゆえ、下された判決は双方の棲み分けを図る妥協的な内容となりました。

 

 【史料1】の前半(A)は、石寺新市における紙商売は「楽市たるの条、是非に及ぶべからず」と述べています。共通テストの注釈にあるように、「是非に及ぶべからず」は「あれこれと議論してはならない」、よりシンプルにいえば「文句を言うな、口出しするな」ということになります(長澤氏は「石寺新市は楽市であるため致し方がない」と訳されています)。

 この判決文は枝村商人に宛てられたものですので、彼らに対して譲歩を迫っていることになります。その内容は(B)との対比から、石寺新市における保内商人の紙商売であるとわかります。つまり、六角氏は枝村商人に対して、石寺新市においては、保内商人の紙商売を認めるよう命じたのでした。

 

 一方後半(B)では、枝村商人に従来通りの権利を認めています。「濃州幷当国〔近江〕中」は要するに石寺新市以外のエリアを指し、そこでは「座人」(枝村商人)以外の商売を認めず、もし発見したら荷物を差し押さえて、六角氏に報告するよう命じたのです。

 

 それでは、(A)の「石寺新市は楽市であるため致し方がない」が、保内商人の紙商売を認めることになるのはなぜでしょうか。ここで注意するべきは、書きぶりからし「楽市」はこの判決によって創造されたのではなく、すでに存在するものであり、かつ「楽市」の内容について六角氏・枝村商人(+保内商人)らに共通理解がありそうだ、ということです。

 加えて、この判決文が枝村商人の訴えに対する六角氏の回答という性格を持つためか、「楽市」の具体的内容は不明です。さしあたり、そこで紙商売を認めるか否か、という営業権に関わるもののようですが、確証はありません*3

 

 六角氏は、商人らの自生的慣習である「楽市」を追認して判決を下したのであり、少なくとも新たに「楽市」を創造したのではないことを確認しておきましょう。

 

家康が設置した「楽市」

 次に、徳川家康が武田氏と遠江駿河国境で対峙していた時期に出された楽市令を見てみましょう。なお、現存する家康の楽市令はこの事例のみです。

 

【史料2】永禄13(1570)年12月日徳川家康朱印状「松平乗承家蔵古文書」(305頁)

(朱印) 小山新市之事

一、為楽市申付之条、一切不可有諸役事、

一、公方人令押買者、其仁相改可注進事、

一、於彼市国質郷質之儀、不可有之事、

 右条々、如件、

  永禄拾三季

      十二月 日

 

 小山は大井川沿いの遠江国榛原郡にあり、東隣の駿河国には武田氏の勢力が進出していました。さらに武田方は小山に城を築いて遠江侵攻の拠点を形成しており、まさに徳川・武田両勢力が鎬を削る最前線が小山であったといえます。加えて小山は、大井川とその下流駿河湾の水上交通を掌握する上でも、重要な位置を占めていました。

 こうした緊迫した状況下で出されたのが【史料2】です。1条目の文言(「楽市として申し付け」)より、【史料1】とは異なり、大名権力が新たに小山を楽市に認定したことがわかります。

 また、楽市の内容として諸役免除(「一切不可有諸役」)が明示されています。家康が他の市場に出した法令でも、諸役免除の規定をもつものはありますが、「楽市」文言を有するのは小山だけです。その理由として、長澤氏はこう述べます。

 

家康が「楽市」を掲げることは、境目を行き交う商人たちにとって、他の市とは異なることを広く認知させ、彼らを招き入れる広告塔としての役割も期待されたに違いない。そこには、武田氏へ間接的な経済損失を与えようとする、家康の戦略的思考が込められていたともいえるのではないだろうか。(88頁)

 

 つまり、この場合の「楽市」は近世的城下町への移行を目指す文言ではなく、目前の武田氏との対立を踏まえて、商人たちを徳川方に引きつけるためのキャッチコピーだったのです。

 

「楽座」は座の廃止にあらず

 ここからは、「楽座」に注目していきましょう。

 「楽座」は戦後の研究史では「楽市」の次の段階として、座を打破する政策と捉えられてきました。ところが実際には、「楽座」は座の解体を意味するわけではなく、座の解体は「破座」など別の語で表現されていたことが明らかになりました。

 「楽座」文言が確認される史料が次の柴田勝家判物です。

 

【史料3】天正4年(1576)9月11日柴田勝家判物「橘栄一郎家文書」(338頁)

諸商売楽座仁雖申出、於軽物座唐人座者、任御朱印幷去年勝家一行之旨可進退、商人衆中法用之儀者、可為如定者也、仍如件、

 天正

   九月十一日  (花押)

       橘屋三郎左衛門尉

 

 当時、信長の重臣柴田勝家は、朝倉氏滅亡後の越前国を支配していました。宛所の橘氏は、朝倉氏の下で薬や絹織物(軽物)などを扱う御用商人でしたが、朝倉氏滅亡後は信長に接近して軽物座の長の安堵をもらい、中国からの輸入品を扱う唐人座の長に任じられました。

 信長は越前国内の有力商人を取り込み、商品流通を掌握しようとしたわけですが、同時に、橘氏座商人や新興商人から「役銭」を徴収して上納するよう命じます。ところが役銭の徴収はすぐに滞るようになり、天正3年9月には勝家が役銭徴収の徹底を橘氏に命じました。【史料3】はその翌年に出されたのです。

 

 【史料3】冒頭の「諸商売楽座に申し出るといえども」の申し出た主体は、諸商人の抵抗に遭って役銭徴収を進められない橘氏と考えられます。橘氏の「楽座」要求に対して、勝家は「御朱印幷去年勝家一行」(役銭徴収の方法を定めた信長の朱印状と、その徹底を命じる勝家の文書)にしたがって、役銭徴収を行うことを命じました。戦国大名にとって役銭は重要な財源であり、そう簡単に手放せるものではなかったようです。

 ここから、橘氏の求めた「楽座」とは、勝家の命令の反対、つまり「座組織の即日解散をさすのではなく、彼ら座商人たちが、足羽三郡以下で商売を行う際に課される、役銭(上品之絹)徴収の減免を勝家側に求めた状態」(235頁)と推測されます。

 つまり「楽座」は、座の解散ではなく、「楽市」が「市を楽にする」(非法行為の禁止、諸役免除など)のと同様に、「座を楽にする」(戦国大名が特権商売の対価として命じた、役銭上納の免除)ものでした(236頁)。

 

 実際、「破座」などの形で座の解体が進むのは、秀吉が関白に任官して以降のことです。秀吉は信長が行っていた従来のあり方(特権商人を保護→役銭上納)を、関白就任を機に改め、自身の権力の存在を全国に浸透させようとしたと考えられます(289-290頁)。 

 

まとめ

・「楽市楽座」の適用範囲はかなり限定されていた。

→近世城下町の起点になる政策ではない。

・「楽市」は「市を楽にする」もので、諸役免除などの具体的内容は、地域の事情により異なる。

→商人たちの自立的活動の中に原型があり、戦国大名が地域の事情に応じてそれを追認・創出した。ただし、「楽市」か否かの決定権は大名の手に回収されていく(295-296頁)。

・「楽座」は「座を楽にする」もので、座商人に役銭を免除して本来の市の状態に戻すことを意味した。

戦国大名は役銭収入を手放さず。秀吉は中世的な座を解体(「破座」)し、商人支配体制を再構築しようとした(290頁)。

*1:個人的には、②'は近年の中世史研究における権力観の変化にも関わる論点で興味を惹かれます。この点につき、山田徹ら『鎌倉幕府室町幕府 最新研究でわかった実像』(光文社新書、2022年)、佐藤雄基『御成敗式目 鎌倉武士の法と生活』(中公新書、2023年)など参照。

*2:但し、裁判の相手方が提出した証文を写した場合は、端裏書にその旨を記すので(97号文書の端裏書など。仲村研氏のまえがきによる)、六角氏から写しをもらった可能性の方が高いかもしれません。

*3:長澤氏は、他の「楽市」事例において諸役免除が認められていないケースがあることから、石寺新市も同様であった可能性を指摘します(68-69頁)。