高校日本史解説

高校日本史に関する内容を解説します。

永仁の徳政令について

 2024年共通テスト本試験日本史B(問題番号13)で、永仁の徳政令とそれを用いた南北朝期の名主百姓等申状が出題されました。有名な史料であり、かつ史料原本の画像・翻刻も公開されていますので、まとめて見ていきましょう。

 

※問題は福井新聞ONLINEから閲覧できます。

 

 出題された史料の出典は徳政令の本文(史料1)、申状(史料2)ともに東寺百合文書です。同文書は「東寺百合文書WEB」で公開されていて、以下のリンクから参照できます。

 

・史料1:永仁5年(1297)3月6日関東事書案(京函48-2)

hyakugo.pref.kyoto.lg.jp

・史料2:康永4年(1345)9月日山城国下久世庄名主百姓等陳状(京函48-1)

hyakugo.pref.kyoto.lg.jp

 

 貼り継ぎの順番から、史料1の永仁徳政令は、史料2の百姓等申状の具書(添付資料)として利用されたことがわかります。まずは申状(史料2)を見てみましょう*1

 

 目安

山城国下久世庄名主百姓等申、為被捨御徳政法、号京都住冷泉治部卿僧都祐円余流良伊豆丸、捧古反故及奸訴之条、語言道断濫吹也、其故如永仁五年三月六日・同七月廿二日関東徳政御事書幷御教書〈備左〉者、於非御家人幷凡下輩質券売買之地者、不謂年記遠近、売主可取返之云々、➀然間当庄殊更為関東得宗御領之間、任御事書法、自給主千田殿被相触之間、本主等取返之当知行既雖送四十余年星霜、其内終以不及相論之処、②号当御奉行御使武家仁二階堂丹後守家人宇野九郎、捧古反故、去康永元年十月廿九日、放入大勢庄家、被譴責名主百姓等之間、其時御奉行大蔵卿阿闍梨御坊、依令言上事子細、仰地頭御代官、被追立宇野九郎訖、③雖然、有所存之者、則可及上訴之処、無其儀、差置数輩御奉行、得当御奉行折、号良伊豆丸、為被捨徳政法、以同篇古反故就訴申之、被封下之条、殆非撫民之儀、④然而雖帯関東御下文・御下知之状、過当知行廿箇年者、非御沙汰限之条、御式目法也、何況今年者四十九年之間不知行、捧古反故及奸訴之条、不可有御許容者哉、以此旨、可然様有御披露、如元名主百姓等為蒙安堵御成敗、謹目安言上如件、

  康永四年九月 日

 

 山城国久世上下庄は、鎌倉時代には「関東得宗御領」すなわち得宗の所領でしたが、鎌倉幕府の滅亡後は一時的に久我家領となり、その後、建武3年(1336)に足利尊氏が東寺鎮守八幡宮に下久世庄地頭職を寄進しました。ここから東寺領荘園としての同庄の歴史が始まります。

 

 さて、百姓等申状(史料2)からは以下の経緯がわかります。

永仁の徳政令(赤字部分)は「給主千田殿」*2から「本主」(売主)に伝えられ、それに基づいて彼らが所領を取り返して以来、40余年にわたり紛争は起きなかった。

②康永元年(1342)10月29日、武家方の宇野九郎が「古反故」を捧げて大勢で庄園内に乱入し、名主百姓らを苦しめたので、東寺経由で室町幕府に訴えて、宇野九郎を追い払ってもらった。

③その後、もし不服があればすぐに提訴するべきところ、そうはせず、今の(室町幕府の)奉行人と関係を作れたタイミングで良伊豆丸*3などと名乗り、前と同じ「古反故」を捧げて提訴した。(それを受けて奉行が)訴状をこちらに封じ下された*4(正式に訴訟として取り上げて、相手方の下久世庄に訴状を渡した)のは、いわれなきことである。

④たとえ関東御下文や下知状(による所領安堵)を持っていても、20年知行しないままであったら、もはや所領の返還を求める訴訟は取り上げない、と御成敗式目(8条)に規定がある。ましてや今年まで49年の間不知行であったのに、「古反故」を捧げて提訴するなど、許されるものではない。

 

 ④の今年(1345)まで49年間不知行であった、という表現から逆算すると、永仁の徳政令(1297)が出た直後に、同法令が「給主千田殿」を介して「本主」(申状を書いた名主百姓らの先祖)に伝わり、買主(非御家人)から下久世庄内の所領を取り返したようです。

 ところが康永元年(1342)に、室町幕府に仕える二階堂丹後守の家人である宇野九郎が、「古反故」(徳政令以前に「本主」と交わされた売買証文)を根拠に、下久世庄を実力で奪還しようとしました。下久世庄の百姓らは何とかこの企てをしのぎましたが、その後も良伊豆丸(宇野九郎)が、前回と同じ内容の「古反故」を根拠に所領返還を求める訴訟を室町幕府に起こしました。史料2は、それに対する百姓側の反論として書かれた申状(陳状)になります。

 

 このように永仁の徳政令(史料1)は、訴人(原告)の良伊豆丸の主張を斥け、百姓の主張を正当化する重要な証文であり、それゆえに申状の続きに貼り継がれたのです。それでは、その内容を見てみましょう。

 

A 関東御事書法

一、質券売買地事〈永仁五年三月六日〉

 右、於地頭御家人買得地者、守本条、過廿箇年者、本主不及取返、至非御家人幷凡下輩買得地者、不謂年記遠近、本主可取返之

 

B 自関東被送六波羅御事書法

一、可停止越訴事

 右、越訴之道遂〔逐〕年加増、奇〔棄〕置之輩多疲濫訴、得理之仁猶難安堵、諸人侘傺職而此由、自今以後、可停止之、但逢評議而未断事者、本奉行人可執申之、次本所領家訴訟者難准御家人、仍云以前奇〔棄〕置之越訴、云向後成敗之条々事、於一箇度者可有其沙汰矣、

一、質券売買地事

 右、以所領或入流質券、〔或脱ヵ〕売買之条、御家人等侘傺之基也、於向後者可従停止、至以前沽却之分者、本主可令領掌、但或成給御下文・下知状、〔或脱ヵ〕知行過廿箇年者、不論公私之領、今更不可有相違、若背制符、致濫妨之輩者、可被処罪科矣、

 次非御家人凡下輩質券買得地事、雖過年記売主可知行、

一、利銭出挙事

 右、甲乙之輩要用之時、不顧煩費依令負累、富有之仁専其利潤、窮困之族弥及侘傺歟、自今以後、不及成敗、縦帯下知状、不弁償之由雖有訴申事、非沙汰之限矣、次入質物於庫倉事、不能禁制、

 

C 関東御教書、御使山城大学允〈同八月十五日京着〉

越訴幷質券売買地利銭出挙事、々書一通遣之、守此旨、可被致沙汰之状、依仰執達如件、

  永仁五年七月廿二日  陸奥守〈宣時〉〈在御判〉

             相模守〈貞時〉〈在御判〉

 上野前司殿〈宗宣〉

 相模右近大夫将監殿〈宗方〉

 

 史料1は以下の3通の文書から構成されています。

A「関東御事書法」(永仁5年3月6日付):関東で作成された、徳政令の要綱

B「自関東被送六波羅御事書法」(永仁5年7月22日付):Aをより詳細に規定して、六波羅に通達した内容

C「関東御教書」(永仁5年7月22日付→8月15日に京都に到着):Bに添付された説明書

 

 今回特に重要なのは、「質券売買地事」と題された条文です。設問のリード文で「鎌倉幕府の出した法令は主に御家人を対象とした」と言及されているように、永仁の徳政令御家人を適用対象とする法令でした。これは、Bで所領を質入れしたり売却することが「御家人等が侘傺(困窮)する原因である」とされていることからも確認できます。

 

 つまり永仁の徳政令において、所領を質入れ・売却する主体(つまり「売主」)は御家人に限定されていたのです。続いて、御家人御家人領を御家人や非御家人・凡下輩に売却した場合どうなるのかが説明されます。

 

 まず、御家人が他の御家人に所領を売却した場合ですが、「原則」取り戻せることとしました。ただし、次の「例外」も設けます。一つは売買契約を承認する幕府の安堵状を得ている場合、もう一つは売却から20年を経過した場合です。

 一方、御家人が非御家人・凡下(要するに御家人以外の人々)に所領を売却した場合ですが、20年を経過していようとも御家人は取り戻せることとしました。御家人間の売買であれば所領返還の「例外」として認められた20年という年紀が、ここでは認められていません。

 

 ここから、鎌倉幕府御家人の所領が御家人以外に流出することを、より強く忌避したことがわかります。その理由としては、御家人が幕府に奉公する際の財源として、彼らの所領からの収益が利用されたことが挙げられます。御家人御家人領を手放してしまうと、御家人が幕府にきちんと奉公できなくなるリスクが発生します。

 だからこそ、幕府は永仁の徳政令で「御家人が知行する所領については、幕府による認定をもって正当な権利の所在の指標とする」*5ことを目指したのでした*6

 

 さて、そうすると冒頭の史料2の百姓らの主張には、重大な誤りがあると言わざるを得ません。彼らが御家人身分でないことは明らかです。にもかかわず永仁の徳政令発布から間もない時期にその適用を主張し、しかも実際に売却所領の取り戻しに成功してしまったのです。

 それから約半世紀後、買い取った所領を徳政令により奪われた祐円の子孫と称する宇野九郎が提訴した時、百姓らは自身の先祖が行った取り戻しを永仁の徳政令によって正当化するべく、「至非御家人幷凡下輩買得地者、不謂年記遠近、本主可取返之」(A)という法令を、「於非御家人幷凡下輩質券売買之地者、不謂年記遠近、売主可取返之」(史料2)に書き換えたのです。笠松宏至氏はこの書き換えについて、以下のように述べています。

 

「この陳状を実際に書いたのは誰なのか、それはわからない。百姓たちが自分で文章を練り、筆を執った可能性はほとんどない。そのようなことに練達の寺僧の一人だったかもしれない。それが誰であったとしても、この文章をつくりながら、当然ながらその矛盾に気がつかないわけにはいかなかった。売った人間に非御家人・凡下を入れておかなければまずい。このささやかな作為が、「買得の地」を「売買の地」に変えたのである。今さらそんな必要は全くなかったのに。この微笑ましい改竄に気づいたとき、もろもろのことが一度に思い合わされて、私はひどくおかしかった。」

(笠松宏至『徳政令講談社学術文庫、2022年、初出1983年、33頁)

 

bookclub.kodansha.co.jp

 

 日本中世法史を考える上で必備のこの名著の一節が、選択肢cの「史料1の規定を読み換え」の元ネタとなったであろうことは想像に難くありません。

 

*1:翻刻『大日本史料』6編9冊648頁以下を参照。

*2:得宗に仕える女房と考えられます。筧雅博『蒙古襲来と徳政令講談社学術文庫、2009年、初出2001年、274頁。

*3:「…と号する」という表現から、宇野九郎が自称していると考えられます。また、②の「号当御奉行御使武家仁二階堂丹後守家人宇野九郎」より、元々この人物は今回の奉行人に伝手があったようです。

*4:訴状を「封下」す手続については、岩元修一「訴状を封じ下す手続」(岩元『初期室町幕府訴訟制度の研究』吉川弘文館、2007年)参照。

*5:新田一郎太平記の時代』講談社学術文庫、2009年、初出2001年、33頁。

*6:徳政の理解については、笠松宏至『徳政令』(講談社学術文庫、2022年、初出1983年)、新田一郎「中世社会の構造転換」(水林彪ら編『新体系日本史2 法社会史』山川出版社、2001年)、神野潔「鎌倉期の法と秩序」(出口雄一ら編『概説 日本法制史』弘文堂、2018年)など参照。